井川メンパの番人 大井川めんぱ大井屋 

井川メンパとは檜の曲げ物に漆を塗った野性味溢れる昔ながらのお弁当箱として主に山仕事をされる方々に愛用されてきた赤石山脈周辺文化圏で受け継がれてきた特殊な民藝品です。2016年9月より静岡県榛原郡川根本町千頭に移住し井川メンパの制作から販売まで一貫して行う井川メンパ大井屋を営んでいましたが、2021年11月より大井川めんぱ大井屋として名称変更し再活動を始めた店主の前田佳則と申します。大井川めんぱは漆にシンナーや油などの混ぜものをしない塗りで、ボンドも使わない桜カバだけで縫い止めた昔ながらの井川メンパそのものを追求し制作しています。これらメンパは修理しながら長く使える機能的な漆塗り曲げわっぱです。赤石山脈周辺に脈々と受け継がれた山人の為の究極に考え抜かれた先人の知恵の塊とも言える漆塗り曲げわっぱであります。ぜひ皆さんの人生のお供にこの民藝品をお加えいただけることを願っております。大井川鐵道が千頭まで復旧する為に全てを賭けて頑張っていきますの大井屋でございます。よろしくどうぞ ®️登録商標第6540431号 大井川めんぱ 大井屋 https://ikawamenpa.blog.jp/archives/1080733506.html 大井川鐵道全線復旧を支援する署名運動が始まりました。ぜひご協力ください 

すでに大井川めんぱをご利用されている方もこれから利用を検討されている方も、その造りの良さやお弁当ライフの心地良さが少しでも伝われば幸いです。2016年9月より大井川鉄道終着駅川根本町千頭にて独立開業した井川メンパ大井屋から2021年11月大井川めんぱ大井屋と名称変更しました。漆塗りの曲げわっぱとして最高峰を目指し日々精進して参ります。井川メンパの塗り直しは毎年1月に行います。国産まげわっぱの漆塗り修理始めました。現在在庫は全て売り切れており半年から一年待ちとなります。ご迷惑をおかけしておりますが何卒よろしくどうぞ https://www.facebook.com/ikawamenpa/ https://ikawamenpa.business.site/

2015年07月

静岡駅アスティの楽市にて9日間行いました展示も今日で終わりました。おかげ様で今回持ち込んだ商品の3分の2が売り切れまして、残ったスタンダード物もそのまま楽市さんへ在庫として収めましたので今回来店できなかった方も、定番商品ではありますが少しだけ楽市さんに残っております。お早めにチェックしてください。またしばらく出来上がるまでに時間がかかりますので、この夏に使うならぜひ!!

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さてさて、今回の展示会でも改めて再確認できたのが井川メンパのコストパフォーマンスについてです。お客様と対話していて感じるのは、とにかく井川メンパが他の産地ものに比べて割安ということ。
自分でも思います。確かに安い。体感的には3割安い感否めません。


価格が安いというのは、ある意味商品の価値と受け取られてしまう可能性があり個人的にはもっと高くても良いだけのクヲリティを維持していると思っていますが、そこは師匠望月氏の考え。食っていければまーとりあえずいいじゃねーか。と。
しかしこれ以上安くしてしまうのは、原価を無視してしまうことになるのである意味ギリギリのラインだと思われます。本当にこの値段でこれだけの手間暇をかけた商品が手に入るのは井川メンパだけだと自負できる理由。それはオールインワンの職人だからこそだという事実です。


通常漆器というのは、何段階も職人集団の手を経て製品となります。例えば有名所の輪島塗。いわゆる輪島八職と言われるそうで、塗りの工程だけでも下地専門の家、仕上げ塗り専門の家、研ぎ専門の家。というように職能集団ごとに別れていて、大量の商品を制作することを前提にそれら集団がさらに集住して一つの組織として機能しながら生産をしてゆくのです。
駿河の国もまさに同じような経緯で、駿河漆器等はそういった職能集団に分かれて生産していたようです。しかし、そこにも現代においては問題があります。どこかが欠けると生産のラインが止まってしまうということ。実際塗師といわれる漆塗りの部分だけが近代においては評価され、木地師等が軽んじられてきた事実があります。当然その中で木地の生産が無くなりつつある現実があり、近い将来これらが大問題に発展する可能性があります。実際木地の良し悪しは漆を塗った際に如実に現れるのです。


井川メンパが生き残ってこれた理由はまさにここにあるかと思われます。


木地の生産、曲物の工程、漆塗り。すべて井川メンパは職人1人が兼業しているのです。極論言うと木を切り倒す瞬間から立ち会っています。本当に手間暇は無視し、全て自前で行っているのです。また恐らくは山奥過ぎて自分で何から何までやらざるを得ない状況だったと言えます。わざわざ塗師に頼むために半日かけて駿府まで降りることはできないわけですから。
さらには明治以降急速に全国の曲げわっぱ生産が終了していったのに、井川メンパが生き残ったのは生産の工程を全てオールインワンでおこないコストを下げていたということ、山奥すぎてこの産業以外やることもなく採算が悪くても手放さなかったというのが本当のところだろうと推測できます。その2点が生き残った理由なのです。

でありますから、例えば塗りにおいてもそこは専門集団の塗師の皆さんから見れば井川メンパは大雑把に映るかもしれません。芸術性を無視し、ひたすらに機能性とコストを意識したならばそれは致し方のないことでありますが、その中でも最善の努力をしてきたのが井川メンパかと思います。こんなに分厚く塗りつけていくっていう漆器も類を見ないでしょう。生産者のエゴではなくユーザーの価値観にマッチングを目指した結果だと言えるかもしれません。


全てにおいて、我々はオンリーワンの制作を行っています。
それが究極の生き残る道であり、井川メンパと弁当箱の物語の核心だと感じます。


とにかく安ければ良いという価値観はもう皆さん飽き飽きしているでしょう。
だからと言って高い価格が価値を産む訳ではなく、プロダクトのハイクヲリティを追求しコストパフォーマンスもユーザーに寄り添ってくれる。こういうものこそ未来へ引き継がれるホンモノだと思います。それが井川メンパではないでしょうか。


まずは実際に手にとってみて、そこから感じる感覚でもって買うか決めてみるのもいいかもしれませんね。皆さんがリアルに手にしてみてくれることを願っています。すべての工芸品は手に持ってから買うか決めるべきです。それが本当に価値あるものかどうか?それは己の直感が感じるままに信じてみるべきでしょう。
ネット販売の主流な昨今、ユーザーコメントが全てになってしまうようでは井川メンパの本当の価値が伝わらないと思うので、もっとそこをなんとか面白い手法はないものかと悩む毎日であります。



















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井川メンパが持っている最大の特質とは?というところで、胸を張って言えるのがその軽さ

持ってみると必ず誰しもが「かっる〜〜」となります。それもそのはず。軽さと強さを兼ね備えた最強のお弁当箱だからです。

そもそも井川メンパの産まれて来た理由が、その2点を追求した結果だからの産物なのです。
昔、井川では焼き畑農法がされており人々は春から秋にかけてのほとんどを高地の畑で過ごす必要があったそうです。ちなみに井川本村あたりは標高700メートル前後だと思います。

人々は自分の村に本宅を持っていて、真冬の間や梅雨の間などはこの本宅で過ごしていたそうです。しかし農作業が可能なほとんどの時間を利便性の観点から山の上の畑の側につくった小屋等の別宅で過ごし、行き来しながら生活するスタイルだったようです。山の上とはそれこそ1000メートル以上の山地が井川にはたくさんあり、畑薙だとかもそのテリトリーだったかと思われます。背後にはそれこそ3000メートルクラスの山地が連なっており、森林限界線までとは言わないが相当な範囲を耕作していたと思われます。

水が冷たく稲作に向かない山間地であったから昭和初期まで焼き畑農業が残っていたようです。ちなみに私の曽祖父の時代までやっていた様子です。本家のおじさんが言ってました。いろんな農具がたくさん残っていましたね。井川にまだある納屋には当時の稗や粟が保存されています。

そもそも焼き畑農法とは、20年から30年間隔で山を焼き、そこで2,3年耕作をして地力を使うとまた次の山へ移動するという遊牧型農法?みたいな感じです。農薬や肥料に頼らない、山の力を最大限に引き出し生産するスーパーオーガニック農法って言ってもよいかもしれませんね。

で、そんな環境の中で産まれた井川メンパ。つまり、人々が山の頂から頂へ移動型の生活スタイルをしている当時、すべてにおいて出来る限り身の回りの品々を軽く持ち運び、さらに簡単に壊れない堅牢さが必要だったのです。昔は農作業の合間に、焼けた石をメンパに放り込んで即席の味噌汁を作ったりしたとか無茶な話を聞きます。それだけ頑丈だったということでしょうが。

井川メンパの材料の檜は何年もかけてゆっくり自然乾燥させます。充分に乾燥しきった木は変形が少なく、さらにとてもとても軽い。しかし白木のままでは柔らかく、脆い。また、汁物等を扱えばすぐに木が変色しカビが生えてします。故に漆を塗り、軽さと堅牢さを併せ持つ最強の意匠に成長したかと思われます。
白木の曲げワッパはたしかに調湿効果で白米だけ食べるには向いているかもしれません。漆を塗った井川メンパは逆に保湿力が高まり、しっとりしたご飯が好きな方に向いています。そして水を通さないので汁物の多いおかずを使う現代の弁当に向いています。オカズ+ご飯のスタイルなら迷うことなく漆塗りの井川メンパでしょう。さらには抗菌作用が強いので、この夏場等は正に大活躍しますね。


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写真は三段重ねにしてみましたが、一番上は塗りたてのもの。B品だったので師匠がくれました。真んは我が家の30年、下は40年ものです。


焼き畑農法や井川に残る稀少な在来品種について語りたいところもありますが、また別の機会に。
ちなみに井川の小河内で最近焼き畑カフェっていう企画があるようです
http://www.okushizuoka.jp/oshi/news/article/001803.html

オクシズの縁側CAFEに続き、井川の焼き畑カフェ。おもしろい流れだと思います。世の中がもっと自然と人間の共生にフォーカスされていく時代の到来を願っています。

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先日、静岡市葵区井川の小河内という集落に行って来ました。ここは私の母が産まれた村。
つまり私の先祖が暮らしてきた場所です。井川の最奥、静岡市の最北端の集落になります。

昔このあたりは正に陸の孤島というべき地域で、それこそ冬場になると外界とは隔絶された空間であり、主産業は焼き畑農業だったようです。冬場の農閑期には手仕事として曲物がされ、柄杓や椀を作っては春になると駿府の街まで降りて行商をしたそうです。

そんな小河内に伝わる伝承では、その曲物の技術を教えたのが【イセソーホー】なる人物とのこと。
この人がメンパの技術を伝える代わりに、【ひよんどり】というお祭りを毎年開催して、我名を祀れと言ったとか。ひよんどりというのは火踊りが転嫁したものとも言われているようで、主に天竜川流域にこの種の催事がたくさん残されているようです。内容がだいぶ違う様子なので、ルーツが同じなのかはわからないですが。
https://kotobank.jp/word/%E3%81%B2%E3%82%88%E3%82%93%E3%81%A9%E3%82%8A-1401465

小河内に伝わるひよんどりというのは、毎年大晦日の深夜、つまり新年が開けてから村の若い衆らが集落を練り歩いてネリコミという事をやるそうで、激しく身体をぶつけあって威勢を張るような行為だそうです。


母がいうには、若い人がまだたくさんいた昭和30年代や40年代のころはそれは激しいネリコミだったようです。今では若い人がほとんどいないので、そういうのもまだやられているのか?今年の正月はチャンスがあればぜひ拝見してみたいと思っています。


そんなメンパの神様《イセソーホー》さんのお墓が今でもあると知り行ってきました。

小河内集落の南西。お堂の山の下あたりだと思います。茶畑を抜けて行くと大きな榊の巨木があり、茶摘みをしていたおばあさんに教えてもらいました。

いろんな本を読んで探してみましたが、イセソーホーの漢字が伝承されていないようでわからなかったのです。そこからいろいろ考えてみて、北条早雲という戦国時代黎明期の武将の雅号が伊勢宗瑞というそうで、この人実はかなり謎の人物らしく出自もまだよくわかっていないみたいです。今川家の食客だった浪人からあっという間に関東を支配し北条家を名乗るようになったそうで、私が勝手に推測したのは金山の職能集団がからんでたのかな?と思ったのです。
小河内の奥には笹山金山というそれこそ後年までかなりの金を産出していた金山があり、柄杓や桶なんかもその水出しに使われていたとか。それが長じてメンパの技術になったとかいう話です。


まったくの推論なので根拠もあるわけではないのですが、イセソーホーってひょっとしたらこの伊勢宗瑞と何かの関係をもっていたのかな〜等と思った次第です。朽ちたお墓がいくつか転がってるくらいしかないので、調べようもないですけど、いつか歴史に詳しい人に出くわしたいと願っています。


そんなメンパの神様のお墓にお参りをし、技術の継承ができるようにと願かけて参った次第です。
自分で作れるようになったら、メンパにお神酒を入れてお供えしてこようと思っています。

2015年5月 

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