今もって井川メンパを継承している家元は2系統だけです。井川の本村に海野家。静岡市内の神明町で望月家。
昭和の初期くらいまでは、それこそ井川に5軒ほどメンパを製造しているところがあったそうです。その後は井川ダムの建設終了とともに人口が流出し過疎化してゆく中で、あっという間に2軒だけになったようです。望月さんも中学校までは井川に在住していたそうですが、高校入学とともに家族で市内へ移住されたそうです。
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世界でたったの2人?! 井川メンパの職人に迫る
http://shizufan.jp/netamap/chubu/103262/もともと井川では金山がいくつかあり、戦国時代以前から第二次大戦中まで鉱山事業は残っていたという話も聞きました。それら金山では水出しに使う柄杓や桶などを、曲物の技術で賄っていたそうです。
江戸末期から明治初期ごろその技術を応用し漆を塗って、お弁当箱やお櫃としての需要に合わせて製品をつくり売りだしていったようです。これがいわゆる井川メンパの発祥の時期と言えると思います。
曲物としてはそれ以前からあったようですが、漆を塗ってない古いものは朽ちてしまうのでなかなか歴史を証明する現物は見当たりません。文献等によるとどうやら鎌倉時代くらいにはこの地方で曲物生産があった様子が伺えますが、そのあたりもっと調べてみたいと思っています。漆を塗る以前は柿渋を塗って主に神に捧げる供物の入れ物等としていたとの話も聞きます。
神楽やいろんな宗教行事が残っている地域でもありますから、神に捧げる神器としての需要もあったのかもしれません。そのあたりも後々掘り下げて行きたいと思っています。
井川メンパの詳しい系譜を、望月さんは今後本にしてみたいと仰っています。井川も村がいくつもあり、それぞれにいろんな造形の意匠でメンパを作っていたと思われます。
望月家のメンパも海野家のメンパもよく見てみると、趣がだいぶ異なっています。それぞれに培った系譜の歴史がきっとそうさせているのですが、このあたり後々どう違っているかなどご紹介できたらと思います。いずれにせよ、望月さんがその本を創ってくれるのが楽しみです。