やんばいでございます。井川メンパ大井屋の前田です。
さてさて早いもので気づけば3月になってしまいましたので、制作はひとまず置いておいて約束の修理に取り掛かり始めました。そして毎度いろんな古いオールドメンパに出会っておりますが、今回とっても古いメンパが出てきたことからメンパ5人衆という人達の話を拾って参りました。

井川メンパは戦後直後くらいまでは組合があってそれなりに産業として維持されていたという話は以前少しさせていただいたと思いますが、現存するメンパのほとんどは海野家のものか、望月家のものになります。組合時代のメンパはいろいろ逆算して考えると60年以上昔になるので、普通はコンディションの状態から塗り直しに出されてくることがほぼありません。

しかし、どんなボロボロのメンパでも修理しますと言っていましたらものすごい古い時代のものが持ち込まれるようになった最近。ついに組合前のものに出会えました。

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そのままだと字が見えにくいのでiPhotで画像を加工しました。丸に片仮名のフ。長島房吉と読めるかと思います。また安倍郡井川村と銘が打たれておりますね。長島さんというのも井川にはかなり多かった苗字だと思うのですが、私はこの人のことを知りませんでしたので師匠の望月さんにお伺いしてみたところ、詳細を教えてもらいました。

望月栄一さんは昭和24年前後の産まれだったと思うのですが、子どものころ親に連れられてこの人に会ったことがあるそうです。親というのは5代目望月良秋さんですが、当時井川の本村に住んでおられて師匠いわく役場の上の壇あたりに住んでいた人だということで、喰籠というお櫃専門に造っていた人だとのことでした。そして望月さんも今までこの人のメンパに出会ったことがないそうです。

お櫃専門の人なので、男物のメンパで出てくることも奇跡みたいなもんだなということでした。そして丸にフなのでフサキチのフだと思うのですが、この人のメンパも一代限りだったとのことでした。

井川メンパは組合時代、海野さんの時代を経て今では望月と大井屋の私だけになってしまった現在ですが、井川という場所に改めてどういう形にしろメンパを産業として復活してゆかなければならないと思いました。その為に今できることは何か?将来への布石はどう打つべきか?20,30年先にどういうビジョンが見えてくるのだろうか?日々考えていると、こういう出会いというか天啓のような機会があることを嬉しく思います。

そしてその時に望月さんから「メンパ五人衆という人達がいた」ということを聞きました。
なんだか戦国武将みたいで面白いですが、当時恐らく色々と制作を助けあったり分業もやっていたのかもしれませんね。お櫃専門だというのもそういうことだろうと思います。確かに井川メンパをやってみて感じたのは、一人でやるには工程が多すぎるとは感じました。個人的にはそういう事ができるようになるのに喜びを感じるタイプなので苦ではなかったのですが、産業として生業を軌道に乗せるにはこの造作を習得するにはかなり時間と熱意を要するのは間違い無いと思います。なので一人で何もかもを一気にやるという今のスタイルがどちらかと言えば、メンパの歴史の中では特異なのかもしれません。

何時の時代か再びメンパ衆を復活させることを目標に今後のメンパ道を歩むのも悪くはない人生かと思ったのです。さて、そういう衆らと出会っていけるように日々井川メンパと共に歩みたいと思います。又5人衆については望月の師匠から聞き取りが出来たら報告していきたいと思います。

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