秋の塗り直しを初めておりますが、順調に仕上がってきそうです。修理に出された皆様どうぞもう少しお待ちください。こんにちわ井川メンパ大井屋前田です。
さて昨晩はNHK静岡キー局で10分程度ですが特集をしてくださり反響をいただいており嬉しい限りです。しかしながらここ最近の寒さなのか頑張りのせいなのか?発熱して体調を崩してしまい今日一日お休みいただいておりますので、この際になぜ私が井川メンパを始めたのか?そのあたりについてお話ししようと思います。

私の母は葵区井川から駿河区用宗に嫁に来たので、息子の私は海沿いで産まれ育ち井川の山深い生活というものに憧れや憧憬を心の底の方に持っていたように感じます。その自分の気持ちに気づいたのも30歳を過ぎてからで、自分のルーツや今後の生活や人生の事を考えるようになり一つのキーワードの様な形で井川という土地を意識するようになっていました。
気づけば都会のオフィスで残業しながらグーグル・マップやストリートビューで井川を旅していたりもしました。中学に上がるまでは毎年夏になると井川は小河内の母の生家に泊まりに行って、キャンプをしたり井戸で洗濯したり、川で泳いだり花火を打ち上げたり隣の神社の境内で肝試ししたりクワガタとったりと。それはもう絵に書いたような田舎の風景を満喫したお陰で、母の故郷が自分の故郷という刷り込みがあったのかもしれません。とても素敵な風景と時間が心の中に残っているのは間違いありません。

そして2014年秋に転職するならいっそ井川に移住しよう!と思いたちましたが、仕事が無いとこまるので井川で行きていける仕事をしたいと思い、現在唯一の井川メンパ継承者6代目望月栄一氏にクラフトマンサポート制度も利用して弟子入り致しました。そして2015年をほぼメンパ造りの勉強と修業に明け暮れて、2016年6月に本川根町千頭へ移住し新たに井川メンパ大井屋として活動を始めました。

なぜ井川ではなく千頭に移住したのか?

最近そこをはっきりと説明しなければいけないように感じています。というのも井川に生まれ育った人、その子孫の人、現在井川に住まわれている人。それぞれにやはり井川という土地に強い誇りと愛着を持たれているように感じ、時と場合によれば川根に移住した現実それが誤解を産む可能性もあると思うに至りましたので、今回は私の考えと今後の井川メンパの道についてお話したいと思います。


まず私の中で譲れない命題があります。それは

「井川メンパの技術と存在を永久に残すこと」

この事を第一に考え行動した結果現在の千頭に拠点を構えることになりました。ただし、そこにはもちろん複合的に色々な要素を踏まえて決断しましたので、それを説明して参りますが一番大切にしたいことはまさに井川メンパの継承についてです。

今年の正月明けに修業が一段落し、先々の事を検討するようになりました。ただタイミング的にはまだ井川でメンパ制作をされておりました海野の親方はご存命であり、これから独立してゆくに海野望月両家の商売を邪魔することはできないと思っておりました。

海野家は井川で直営を営み、望月家は市内で卸を営み、井川メンパとしてはバランスを保ちながら共存を経っていたのではないかと思っておりました。ですからその間に参入することは当初より考えておらず、できればマーケットの違う層で勝負したいと思っておりました。つまり県外のお客(曲げわっぱユーザー)や、国外のマーケットで勝負できる事を想定していたので、生産拠点について考えた時に生産する立地については、材料の確保や利便性を考慮しました。調べて行くうちにいろいろな検討をしましたが井川での事業立ち上げにはかなりの困難を伴う事を感じるようになっていました。

製材所もなく、超過疎になっている現状。また井川線の不通による観光客の減少。また静岡市という大きな行政区の中での一つでしか無い立ち位置。一人での移住に伴う個人的な生活の利便性。銀行決済や事務処理機能を賄う選択肢の限界。家族の意見。

こういった井川の問題を考えるに至り、また海野家の商売を考えた時に井川での創業はまだ時期尚早と判断しました。

そして先に上げた理由で、できれば両方の親方の存在やマーケットを汚さない方法ということを検討していくなかで県外移住やいろんな事を想定してみたものの、その中で一番現実味のある大井川鉄道沿線での創業を検討するようになりました。理由としては、私の顧客ターゲットは静岡県民を想定していないので、外への情報発信や、来店のしやすさ、物語としての面白さ。大井川鉄道なら日本全国のお客様と繋がることができる。メンパの価格帯や作り込みの差異を産むことでマーケットの干渉や衝突を防ぐこともできる。材料も手に入りやすい。川根本町が移住者に手厚い。創業補助が受けられる。いろんなプラス材料が転がっていましたのでまずは川根筋と判断しました。
故に今年の2月くらいから積極的に川根筋を週末に訪れ、いろんな場所や土地物件を検討しておりましたが3月の段階で現在の千頭に良い物件を見つけ、瞬間的に全てを決定しました。


それから融資の問題や、移住の段取りに明け暮れておるうちに海野親方の訃報を知りました。しかしながらその段階ではすでに不動産契約の段取りも進められ、役場廻りにも挨拶したり、望月の親方にも千頭行きを後押ししてもらい、舵取りをし直すという事はしませんでした。

井川に住んでつくるからこそ 井川メンパ 

そう考えられる、またそう信心される方もたくさんおられます。実際私も実はそう思っております。しかしながらまず申し上げた最大にして唯一の命題

「井川メンパの技術と存在を永久に残すこと」


このことを再優先するには、今回の千頭への移住と創業は最適な判断だったと個人的には思います。自分が伝統工芸を継承するに至り感じた問題点。それはやはり生業として魅力的なものでなければ生き残れないという現実です。

私は家族の援助のおかげもあり一年と少し無給でも生活ができたので修業をやり切ることが出来ました
。それは本当に幸運なことでした。しかし私に続く後世の皆が、果たして無給で何年も修業ができる時代なのか?それは継ぐ者の責任だと転嫁するのは間違いだと思います。そのような問題を後回しにしていれば後継者が産まれず滅びていくのが目に見えています。また井川メンパの技術を家族でもって継承していくには、継承する者にとってもたいへんな負担であると思います。休みもほとんどなく、身体を酷使して、社会保障もないのでいつ無収入になるかわからないでいる親の姿を見て喜んでその運命を受け入れれるでしょうか?正直無理だと私は思います。

つまり千頭に移住した最大の理由は正にここです。井川メンパという事業を確立して、後世の人が不安なくその手仕事に没頭できる道を造ること。それを今私の世代のうちにやりきること。それが井川メンパを残す最適な方法だと信じたからです。

それには井川の土地よりも現時点では様々なバックアップを期待できる川根での可能性に賭けてみました。最後は自分の感性からの決断ではありましたが、ここである程度事業として働く仲間や組織の構築が図れる段階まで持っていけば、後は井川の土地への恩返しを考えていくべきかと思っておる次第です。

大井川という川に沿っていろんな人生や物語が流れてくるのを感じています。我々の先祖が大切に守ってきた物の物質的象徴が井川メンパとして残るならば、精神的象徴としてそこでの生活が必要なのかもしれません。

それが合わさってこそ、一つの井川メンパである!と感じます。

私が人生を賭けて大井川をどこまで遡上できるか?それはやってみないとわかりませんが、きっとたどり着けるだろうと信じております。今回の報道で井川メンパに興味を持たれた方、山間地への移住を検討されている方、新しい仕事の在り方を模索されている方、お弁当箱が好きな方。どんな理由でも結構です。千頭に起こしになられた際はぜひ井川メンパ大井屋にお立ち寄り下さい


井川メンパ大井屋

静岡県榛原郡川根本町千頭1225−8
050-5894-2806
定休日;水曜 





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